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食のサロン その58 《江戸・東京 食事情 ② 豆腐の話 Ⅱ》 2015.2

日本人で豆腐が苦手と言う人はあまり聞いた事が無い。
大豆アレルギーの方は別とすれば豆腐好きの人は多いと思われる。
私の育った下町では豆腐が好きだと言う子供がいると、年配者から将来は荻生徂徠(おぎゅうそらい)のように出世するかも知れないと褒められた物である。
荻生徂徠は江戸中期の学者で若い時に貧しく不遇な時期があったが、勉学に励み柳沢吉保に抜擢され御用学者となり後に将軍綱吉に認められ500石取りとなる。
その徂徠が貧乏時代に豆腐屋から豆腐を分けてもらい、毎日のようにそれを食べ空腹をしのいで勉学に励んだと言う逸話がある。
後に出世した徂徠が火事で焼け出された豆腐屋に恩返しをする。
「徂徠豆腐」と言う話として落語や講談にて伝わっている。
豆腐屋に分けてもらったのは副産物である「オカラ」と言う説もあり、話の真実の程は分からないが当時、既に庶民の食べ物として豆腐がポピュラーな物であった事は伺い知れる。
山本一力の直木賞受賞作「あかね空」は、主人公の京の豆腐職人が江戸で豆腐屋を創業する。
一家の夫婦愛や親子の絆を描いた人情時代小説であるが、江戸庶民の日常や当時の豆腐に対する食事情も良く読み取れる。
江戸から続く豆腐料理の老舗に根岸の「笹の雪」がある。
320年程前の元禄
4年、初代が江戸で初めて「絹ごし豆腐」を作り根岸に豆腐茶屋を開いたとされる。
店名の由来は上野の宮様が、この店の豆腐を称して「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ」と賞賛した事から名づけられたとされている。
自家製の豆腐を使った豆腐料理を、コースで味わえる事で人気を呼んでいる。
宮様がおかわりをした事に由来して、かならず
2皿にして提供される名物「あんかけ豆富」や豆腐の茶漬け「うずみ豆富」等が客を楽しませている。
入谷鬼子母神の縁日である朝顔市の時など浴衣姿の客での賑わいは有名である。
古くは赤穂浪士の大石内蔵助も食べたと言われ、正岡子規は住んでいた「子規庵」にも程近く「水無月や根岸涼しき笹の雪」等の俳句を残している。
ちなみに豆腐料理店では「豆腐」では縁起が悪いと「豆富」の字を当てている処も多いが、この当て字を最初に使ったのもこの店との事である。
もう一軒東京の豆腐料理専門店としては文京区白山の「五右衛門」を付け加えたい。
大正から昭和初期の面影を残すたたずまいの中で食す「湯豆腐」などの豆腐料理は風情がある。
豆腐は夏の暑い日には冷たくして「冷奴」となり、寒い冬の夜には「湯豆腐」として暖を取る。
又「味噌汁の具」にもなり、「白あえ」としてあえ物にも成る。
料理の主役にもなり他の食材との相性が良く、名脇役にもなる。
日本料理には欠かせない食品であり、最近ではヘルシーな食品として外国人にも好まれている。
豆腐から作られる食品も数多く、稲荷ずしの材料となる「油揚げ」は薄切りの豆腐を油で揚げた物である。
「厚揚(生揚)」はもちろんの事、煮物やおでんなどに用いられる「がんもどき」も豆腐を素に作られる。
「凍り豆腐(高野豆腐)」は豆腐を寒風にさらして一旦凍らせて、乾燥させて作られた保存食である。
                          文責:小堺化学工業㈱ 営業部長 青木知廣


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by kosakai_blog | 2015-03-08 21:03 | 食のサロン
食のサロン その57 《江戸・東京 食事情 ① 豆腐の話 Ⅰ》 2015.1
中国生まれの豆腐が日本に渡ってきたのは平安時代の後期頃と言われている。
大陸からの渡来僧によって伝えられたとの説が有力であり、禅寺から全国に広がっていった物と想像される。しかし江戸時代初期には禁令があり、庶民には作ることも食べる事も許されては無かったらしい。
江戸時代中期になり豆腐が庶民の口に入るようになると、豆腐料理は急速に発展をする。
天明二年(1782年)には豆腐百珍なる料理本が出版され大好評となり翌年には続編も出版される。
当時「江戸の豆腐」と「京都の豆腐」は対比され、京都の豆腐は色も白く柔らかく美味しいが、江戸の豆腐は色も悪く硬く味も悪いと言われた。
豆腐好きであった南総里見八犬伝の作者滝沢馬琴は、京都で豆腐を食べ「祇園豆腐」は真崎の田楽に及ばず、「南禅寺豆腐」は淡雪に劣ると江戸の豆腐に軍配を上げている。
「真崎の田楽」とは、真崎稲荷の境内に田楽を売る茶屋が何軒もあり、お参りのついでに田楽を食べる庶民で賑わったと伝えられている。
池波正太郎の剣客商売に出てくる秋山大二郎の道場は、小説の中でこの真崎稲荷近くに建っていたとされている。
現在の荒川区南千住あたりとなる。
「淡雪」とはニガリで固めない柔らかい豆腐であり、この豆腐に葛餡を掛けて食べたとされる。
両国の回向院門前に2軒両国橋付近にも「淡雪豆腐」の店が数軒あったと伝えられる。
付け加えれば滝沢馬琴は江戸ひいきであり、京の豆腐にも勝るとの話と思われるが、当時「祇園豆腐」は全国的に知られていた。
京都八坂神社の2軒の茶屋は特に有名であり、その内の1軒は今に残る老舗料亭「中村楼」で現在も「田楽料理」で知られている。
当時は田楽に菜飯を添える事も流行し、浅草には「菜飯田楽」の店が多くあったと伝えられる。
現在では、愛知県豊橋にある「きく宗」の菜飯田楽が全国的に知られている。
現在豆腐の種類は「もめん」「きぬごし」「充填きぬごし」に分けられる。
大豆を水に浸した後砕いて呉(ご)を作り、熱を加え豆乳とオカラに分離する。
豆乳を凝固⇒くずし⇒圧搾⇒成型⇒水さらし冷却した物が「もめん豆腐」である。
豆乳をそのまま凝固⇒成型⇒水さらし冷却した物が「きぬごし豆腐」。
「充填きぬごし」は多くが工業的に作られるが、豆乳を一旦冷却⇒凝固剤を加え容器に充填後加熱凝固させる物で長期保存が可能になる。
昔より豆腐を固めるには「ニガリ」が用いられた。
現在豆乳を固める凝固剤としては
●塩化マグネシウム
●塩化カルシウム
●硫酸カルシウム
●グルコノデルタラクトン
●硫酸マグネシウム
●粗製海水塩化マグネシウム(塩化マグネシウム含有物)
の6種類がある。
一般的に言う「ニガリ」は塩化マグネシウムを主成分とし、海水から塩化ナトリウムを除いた物を言う。
すまし粉(硫酸カルシウム)も「嵯峨豆腐」で知られる京都の森嘉等広く使われている。
これら塩凝固に対して、グルコノデルタラクトン(GDL)は豆乳に混ぜるとグルコン酸が生成され豆乳を固める酸凝固である。
昭和30年代頃までの東京下町の朝は、豆腐売りのラッパの音から始まった物である。
朝食に豆腐の味噌汁が定番だった日本の朝は昔の話となりつつあるが、豆腐は日本人が愛してやまない食材である事に変わりはない。

                                      文責:小堺化学工業㈱ 営業部長 青木知廣
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by kosakai_blog | 2015-01-14 16:36 | 食のサロン
食のサロン その56 《江戸前鰻の話⑫ 天然鰻は腕で仕上げる?》
関東では下りの青に代表される天然鰻はいくら養殖の技術が向上したと言っても及ぶ物ではない。
しかし天然の上物を蒲焼に仕上げるには大変な技術が必要となる。
鰻店は数多くあるがその技術を持つ店と職人は多くは無い。
1メートル近くもある天然鰻を名物大串として提供するのが南千住の「尾花」である。
以前は天然鰻を売りにして天然鰻の大きな看板を掲げて日によっては提供する鰻の7割方が天然であった事もあったと聞く。
天然鰻と染め抜かれた暖簾をかき分けて店に入ると、店内には釣り針ご用心の張り紙があり、土産に蒲焼を持ち帰る紙袋にも天然鰻の印刷がされていた。
残念ながら今は天然の文字が無くなってしまい、釣り針に注意する事も無くなってしまったようである。
この店の蒲焼を別の鰻店の職人は、串に刺した鰻をあの口に入れるととろけるように軟らかく焼き上げる技術に感心をしていた。
鰻を焼いた経験のある人であれば、そう思っても不思議ではないと思われる。
名物尾花の大串はどのように作られるのであろうか。
目打をした鰻を背開きにし、キモ、中骨、向こう骨、背ビレ、腹ビレを取り除く。
さらに針を打って固定し削るように、小骨を除き頭と尾を落したのち等分に切る。
左から2~3cmの間隔で一か所に2本の串を打つが、串は平行よりやや先すぼみの八の字とする。
この時の串は肉が盛り上がるように、身を縮めて厚みを増した鰻の中央に打つ事が大切である。
素焼きは強火の炭で、皮から焼き手返しを何遍も繰り返し火を良く通す。
頃合いとしては、皮に米粒大の細かな焼き目が付いて来るまで焼き上げる。
焼きあがった鰻はさっと水洗いをしてから、大きさにもよるが40分程蒸しあげる。
蒸しあがった時の鰻の身は見た目が赤みをおびている。
蒸しあがったらタレに浸し今度は身の方から弱火で焼く。
タレが固まらないように小まめに返し、4回たれを付けて5分程で焼き上げる。
焼く際は素焼き蒲焼とも手返し百遍と言われるように、ひんぱんにひっくり返しむらなく焼き上げる事が肝心である。
口にした瞬間に崩れるほど柔らかく仕上げられた鰻は、下町特有の辛口のタレのかもし出す香りと相まって絶妙の味となる。
天然鰻の産地には以前関東では利根川下流のほか印旛沼、手賀沼、霞ヶ浦等があったが水質汚染などもあり激減しているようである。
夏が旬のイメージがある鰻だが、天然物は夏場に餌を食べて栄養を蓄えるので秋から冬にかけて捕れる物が最も美味しいと言われている。
全国的には九州柳川、四国四万十川、北陸の三方五胡、山陰の宍道湖等が知られている。
鰻の蒲焼は俗に「くし打ち3年、裂き5年、焼きは一生」と言われている。
鰻職人にとって焼きは、一生の修業と言う事になりその腕の見せ処となる。
江戸末期創業の名店「竹葉亭」にはかつて焼政と呼ばれた名職人浅野政吉がいて、「竹葉亭」の名を高めたと聞いた事がある。
木挽町の本店は、大正期に建てられた茶室と座敷を持ち風情あるたたずまいで客を迎えている。
江戸前の鰻店の系統では大和田を名乗る店も多い。
本家とされるのは尾張町大和田であるが、そこで修業し暖簾分けされて店を出しまたその暖簾分けされた店で修業し大和田を名乗る。
大和田を名乗る店は新橋の「大和田」柏の「大和田」台東区竜泉の「大和田」の他多くある。

                                       文責:小堺化学工業㈱ 営業部長 青木知廣
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by kosakai_blog | 2014-11-21 14:11 | 食のサロン
食のサロン その55 《江戸前鰻の話⑪ 鰻は栄養の宝庫?》
鹿児島の開聞岳を望む池田湖に生息する大ウナギを見に行ったことがある。
最大で体長約2m体重20kgにもなりその太さと大きさには驚くがウナギ目ウナギ科で通常目にするウナギとは同属の別種との事である。
南西諸島あたりでは捕獲して食べられる事もあるようだが味は今一つと言われている。
水槽にいる大ウナギを見て一匹で何人前の鰻重が出来るのかと考えるのは不謹慎と言う物であろうか。
浜松の名物土産に「夜のお菓子」のキャッチフレーズで知られる「うなぎパイ」がある。
蒲焼をイメージさせる鰻エキスが入った細長いパイである。
夜のお菓子とは意味深であるが製造元に言わせると夕食後の一家団らんに食べてほしいそんな意味だと言う。
しかし精が付くウナギのイメージから勘違いして買って帰られる客も多いとの弁であり案外狙いはそのあたりかもしれない。
日本橋の老舗楊枝専門店「さるや」ではウナギに似せた楊枝を販売している。
どちらも細長い楊枝とウナギをイメージさせた江戸っ子のシャレと思われるが、鰻好きとしては是非小道具として持ち歩きたい物である。
鰻の生産量も減り価格も高騰して来ている昨今は鰻を余すところなく食べようと言う考えも再燃して来ている。以前から鰻を割く時に出る頭の部分を串に刺して焼いた「かぶと焼き」やヒレなどの端切れの部分を串に刺した「倶利伽羅(くりから)焼き」等は庶民の酒の肴とされてきた。
ちなみに「倶利伽羅焼き」は串に刺された鰻の端切れが不動明王の持つ「倶利伽羅剣」に例えられての事である。
肝臓や胃、浮き袋等を丁寧に分けて串に刺され串焼きを提供する鰻店もある。
中野にある「川二郎」では鰻を割く時に落される頭の部分を割いて中骨を取り除き身の部分を串刺しにして提供している。
人形町の「心天」は鰻の皮を串巻とし、背びれをヒレ串、レバー、鰻のつくね等の串焼きを提供している。
そうした店は骨も素揚げにしておつまみとしてサービスしたりしている。
そもそも栄養豊富な鰻は必須アミノ酸のリジン、メチオニン、スレオニン、トリプトファンの他にDHA、EPA等の必須脂肪酸を多く含んでいる。
加えてビタミンA、ビタミンEにコラーゲン、骨まで食べればカルシウムの補強ともなる。
余すところなく食べる事は栄養学的にも大切なように思える。
ところで鰻を刺身のように生で食べる事が無いのは実は鰻の血液には有毒成分が含まれているからである。その事を知らない人は案外多く話を聞いて食べて大丈夫かと驚く人もいる。
有毒成分「イクチオヘモトキシン」は60度で5分ほど加熱すれば毒性を失うので通常の鰻料理では全く心配は無いわけである。
価格高騰により若者の鰻離れが気になる処であり鰻は年配者の好む料理と言うイメージがあるかと思うが実はそうでも無いらしい。
夏の土曜日の昼に神田明神近くへ来たので鰻店「神田川」へ今から行きたいと電話をすると椅子席の相部屋があいておりそこへ通された。
私たちの他に2組がいたがいずれも若いカップルで鰻店での食事を楽しんでいる。
二人でネット検索し次のデートは鰻店でと言う事で訪れたようである。
若者のデートに利用されている場を見て鰻が若い人たちにも支持されている事を知り少し嬉しく思えた。

                                     文責:小堺化学工業㈱ 営業部長 青木知廣
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by kosakai_blog | 2014-11-19 19:15 | 食のサロン
食のサロン その54 《江戸前鰻の話⑩ 鰻店は何と言っても江戸東京?》
江戸前と言う言葉はそもそも鰻を指していたそうである。
嘉永5年(1856年)に江戸前大蒲焼番付表と言う物が出されており江戸に有った221軒もの鰻店が記載されている。
番付表を見ると知っている店の名前を目にする事も出来る。
世話役として山谷重箱、番付の上位には浅草「前川」明神下「神田川」等現在も営業を続け繁盛している鰻店が登載されているからである。
推測ではあるが江戸には400軒を超える鰻店があったと考えられており、それに蒲焼売りとされる屋台の露天商等を加えると800軒位の鰻屋があったのではないかとの説もある。
人口比からするとその数は極めて多く、しかもその殆どが鰻料理以外は扱わない専門店であった事も驚きである。
その数字を少々割り引いても如何に江戸っ子が鰻好きであったかが窺い知れる。
当時の江戸は隅田川に代表される大きな川だけでなく掘割や水路が張り巡らされ沼や池も多く点在し鰻にとっては格好のすみかとなっていた。
浅草蔵前周辺は幕府の米蔵が並んで建ち船を利用して運び込まれる米俵から零れ落ちる米を餌にした肥えた鰻が捕れたと言われている。
江戸の商業の中心地とされた日本橋界隈や職人が多かった神田近辺、随一の繁華街であった浅草には今でも有名な鰻店が多くある事で知られている。
現在の日本橋界隈の有名店は小網町の「喜代川」室町の「いずもや」「伊勢定」「大江戸」に加え「高嶋屋」「室町宮川」「小伝馬町宮川」。
元全日本代表でサッカー解説の松木安太郎の実家として知られる「近三」もその一件である。
神田では神田明神下「神田川」が粋な黒塀の風格のある店構えで迎えてくれる。
北辰一刀流千葉周作道場があったとされるお玉が池跡に店のある「ふな亀」。
神田駅近くの「菊川」外神田の「久保田」湯島天神下「小福」等がある。
浅草も創業100年を超えるような老舗がそろっている。
駒形の「前川」雷門の「やっこ」新仲見世「つるや」その他にも「色川」「小柳」「初小川」「川松」等名店が味を競っている。
また向島を始め神楽坂、赤坂等、花柳界のある地には必ず鰻の老舗があるのも面白い。
「向島宮川」神楽坂の「志満金」赤坂の「ふきぬき」等が評判の店でもある。
江戸川沿い帝釈天、寅さんで知られる葛飾柴又にも川魚料理、鰻の老舗は多い。
「川千家」「川甚」等は創業100年を超える老舗として評判の店である。
映画「男はつらいよ」の第一作でクライマックスとなる寅次郎の妹さくらと博の結婚披露宴シーンは川甚で撮影された事は知られている。
山の手では江戸川橋の「石ばし」「はし本」等の老舗が繁盛している。
麻布にある「野田岩」は江戸期創業の老舗である。
当主「金本謙次郎」は長年続けている仕事も単なる作業にしてはならないと常に追求心を持ち職人技を貫いている。
平成19年に鰻職人として初の現代の名工に選ばれている。
開いて串に刺した鰻の皮と身の間の余分な脂を素焼きの段階で焼いて落す。
表面を団扇であおいで冷ましながら内を焼く要領である。
たれを付けて焼く作業は4回繰り返し炭を置く位置、団扇をあおぐ速度等を微妙に調節しながら焼き色を出す事に全力を注ぐ。
表面をこがさずにぎりぎりの処で黄金色に焼き上げる、まさに職人技である。
ところで野田岩本店に掛かる看板には「狐うなぎ」とある。
「狐うなぎ」とは、かつて野田岩で提供されていた利根川上流で捕れる狐のように口が細い事からそう呼ばれた天然鰻との話である。

                                       文責:小堺化学工業㈱ 営業部長 青木知廣
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by kosakai_blog | 2014-09-29 16:33 | 食のサロン
食のサロン その53 《江戸前鰻の話⑨ タレは鰻店の宝物?》
天丼・かつ丼ときても鰻は鰻丼では無く鰻重のイメージが強いのは、蒲焼の長さが丸い丼よりも長方形のお重に合うからだろうか。
鰻好きの中には、鰻もお重では無く鰻丼が良いと器にこだわる人もいる。
落語家の柳家小さんは、湯島にある鰻店「小福」に自分専用の丼を預けていたと言う話を聞いた事がある。鰻丼の起源については、江戸時代「宮川政運」著の物事の起源を表した書に今の人形町あたりの芝居小屋の主人「大久保今助」が考案したと言う説がある。
蒲焼とご飯にタレがしみ込んだ味が、芝居町を中心に人気となり近隣の大野屋が元祖鰻飯として売り出したとの記述もある。
鰻店によっては値段の安い方は丼で提供し高価になると鰻重になる店もある。
実際に鰻の値段はその大きさの違いによる物である。
今のように蒲焼にする鰻を割いて開く技法は、江戸中期に上方から江戸に伝わったとされている。
現在はどの鰻店でも鰻を割く包丁は専用のサキ包丁が用いられている。
その鰻を割く為の包丁は地方により独特の形に工夫され、江戸サキ、大阪サキ、京サキ、名古屋サキ等とそれぞれ異なるようである。

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歴史ある鰻店で最も大切にされているのは、その店に代々伝わるタレである。
秘伝のタレと言う事になるのであるが意外に配合自体はシンプルな物が多い。
創業200年を超す都内屈指の老舗「神田川本店」の特徴である辛口のタレは、醤油と味醂のみを配合しそれ以外調味料や糖類は一切使わないそうである。
「尾花」も醤油はまろやかな香りが特徴の小豆島のマルキン醤油とこだわるが配合は、醤油と味醂のみとの事であり他の老舗については「野田岩」等もしかりである。
企業秘密で実は隠し味があるのではと邪念も抱くが、実は長年蒲焼を焼いて来たが故のうま味成分が蓄積される事に秘密があるらしい。
何度もタレ付けされて焼かれた蒲焼は、メイラード反応を起こしてコクと深みを増し同時に鰻からのうま味成分が加わる。
それらを含んだタレは独特の風味を持つ事になり、歴史によって作られるその店独特のタレとなる。
老舗のタレは創業以来絶やさず継ぎ足される事により、何万匹か数えきれない鰻のうま味を備えている事になる。
関東大震災の時にタレ壺を抱えて火の中を逃げた。
戦時中に空襲を受け、戦火の中から命がけでタレだけを運び出して守った等の話が残る老舗は多い。
そんなタレをつけて焼かれる蒲焼は、香りを出す為にも炭火が一番と言われている。
使われる炭は最上級の紀州備長炭を用いて火を起こし、炭から10数㎝離して焼くのが良いとされている。
多くの鰻店は素材としての鰻へのこだわりを持っている。
もちろん入手しにくい高価な天然物もあるが、養殖でも育て方にこだわったブランド鰻がある。
「うなぎ坂東太郎」は忠平㈱が手掛ける鰻のブランドで、浅草駒形の「前川」始め各鰻店では他の養殖鰻とは区別された蒲焼とされている。
焼津の㈱供水で養殖される「大井川・供水(きょうすい)うなぎ」も幻の鰻とされ評判を得ている。
これらは餌にこだわり、環境を整えストレスを掛けないよう時間を掛けて育てる事により、天然に近い養殖鰻を提供している。
鰻の蒲焼と言う料理は100年前から変わらず、これからの100年もほとんど変わらないだろと言う人がいる。しかしそれに係る人々のたゆまない創意工夫は、江戸の昔から今日に至り今後100年もきっと続けられていくと確信している。

                                      文責:小堺化学工業㈱ 営業部長 青木知廣
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by kosakai_blog | 2014-08-19 17:56 | 食のサロン
食のサロン その52 《江戸前鰻の話⑧ 故郷は鰻に聞いてみる?》
近年鰻好きとしては肩身の狭いニュースが多い。
シラスウナギの捕獲量が激減している事にある。
ウナギを絶滅危惧種として国際取引を規制する動きもある。
個体数の減少傾向が絶滅の恐れのあるレベルに達しているとの話もあり、宮崎県では親ウナギの禁漁期間を設け、産卵期の親ウナギを保護している。
ウナギは完全養殖が出来ない為養殖にあたって稚魚を捕獲して育てる方法がとられている。
ウナギを産卵させて卵から孵化させ養殖する事は非常に困難とされている。
海で育ち川を遡上して産卵する鮭とは逆で、川や湖沼で育ち海にて産卵するウナギの習性が養殖を難しくしているようだ。
したがって長年、毎日何十何百と鰻を割いている職人でさえ鰻の卵を見た人はいない。
目利きの職人も鰻の良し悪しは分かっても、雄雌の判断などできないのである。
学術的にもウナギは何処で産卵されどのように育ち日本の川を上って湖沼に生育するのかが長年の謎であり、確認解明されたのはつい数年前の事である。
東京大学の構内においてうなぎ展があると聞いて、赤門をくぐって見学に行ったことがある。
ウナギ博士として知られる、東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授の集大成とも言える博覧会であった。
塚本教授とその調査団は、今まで謎とされていた日本鰻の産卵場所を、西マリアナ海嶺南端部と特定する事に成功した。
その方法は太平洋を鰻の稚魚を追い求め、孵化したての幼生(プレレプトケファレス)までさかのぼり、産卵したての受精卵までたどり着く気の遠くなるような作業であった。
海で生まれたウナギはシラスウナギと呼ばれる稚魚に成って川を上り、成長した後川を下って海で産卵する事はよく知られている。
しかし産卵やシラスウナギに成長する海での生態は、長い間謎とされていた。
産卵後孵化したウナギの幼生はレプトケファルスと呼ばれ、これが海で成長し変態してシラスウナギになる。
レプトケファルスは、水中に漂う姿が風にたなびくヤナギ葉のようなので「ヤナギ葉幼生」とも言われる。
さらにその後これも大きな謎であった孵化したての稚魚の餌も突き止める事に成功し、日本人の長年の夢である鰻の完全養殖に向けた明るい話題も提供している。
近い将来卵から育てる鰻の完全養殖が実現される事を心待ちにしている鰻好きは多い。
都内に鰻屋を営む店が数件しかなくなり、「鰻重はここ数年食べて無い」江戸っ子がそんな悪夢のような話をする日が来ない事を祈るばかりである。
愛知県のウナギ養殖会社が2013年に、フイリッピン産シラスを池入しアンギラ・ビカーラ種の養殖販売に目途を付けた。
現在中国ではヨーロッパ産のアンギラ種、アメリカ産のロストダラー種、東南アジア産のビカーラ種とマルモダラー種が出荷されている。
日本産ジャポニカ種以外の鰻も既に私たちの口に入っているのかも知れない。
シラスウナギの捕獲量が減って来たのは、資源の枯渇に加え海域の海水温変化も起因しているのではないか。
産卵場所が海水温の変化や気象条件等により移動していれば、黒潮に乗って移動する鰻の稚魚が日本にたどりつかなくなるのではないか。
かつて北海道で沢山漁獲されたニシンのように・・・。
あれこれ考えながら食べる鰻重はいつもより箸の運びが遅くなる。

                                      文責:小堺化学工業㈱ 営業部長 青木知廣
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by kosakai_blog | 2014-07-18 14:08 | 食のサロン
食のサロン その51 《江戸前鰻の話⑦ 歴史の町には鰻店?》
全国の鰻の産地や消費地では、鰻に関してのイベントを行う所も少なく無い。
中仙道の宿場町浦和では毎年鰻祭りを行っており、それを目当ての観光客もある。
初夏の風物詩として毎年5月に市役所で開催され、市内の各鰻店が提供する鰻弁当を求める客で賑わう。
鰻サミットも開催され、静岡県浜松市や岐阜県多治見市等、鰻ゆかりの町が参加するようである。
鰻の老舗も多く、「山崎屋」「満寿家」等立派な構えの鰻店がある。
埼玉県は海が無く元々沼や川が多い地域であり、川魚料理が発展したものと考えられる。
長野県岡谷市は、寒の土用丑の日に鰻を食べようと登録し、町おこしを行っている。
鰻は脂を蓄えた冬が美味しいと言う説もあり、夏のイメージのある鰻を冬にも食べようと言う考えだろうか。
元々岡谷は諏訪湖や天竜川の鰻を名物として、市内には鰻店が多い。
天竜川に「やな」を仕掛けて、鰻を捕まえ料理を出したのが始まりとされる「観光荘」は、いつも客で賑わっている。
ちなみに店名の由来は、観光旅行等の観光ではなく以前天竜川沿いには蛍が多くこの蛍の光を見物する意味での「観光荘で」あったとの事である。
以外に知られていないが仙台、松島も鰻店が多くあり鰻はよく食べられている。
松島にある伊達家の菩提寺でもある瑞巌寺境内には、立派な鰻塚があり鰻好きとしては立ち寄って供養したい所である。
アヤメ祭りの季節に水郷として知られる潮来や佐原を訪ねた時に鰻に関する資料展が開催されていて見学した事がある。
佐原には「長谷川」「山田屋」等有名な鰻店がありアヤメ見物の客で賑わっている。
ところで夏の土用丑の日に鰻を食べる習慣は江戸時代に平賀源内が鰻店から頼まれて考えたキャッチフレーズから始まったと言う説がある。
平賀源内の旧居あとは浅草の橋場にあり今は小さな碑が立つのみであるが偶然か道沿い近くに「筑波屋」と言う鰻店がある。
土用丑の日の鰻は今や夏の風物詩、一大イベントとして定着している。
暑い夏を乗り切るスタミナ食として栄養豊富な鰻を食べる事は理にかなっているのかもしれない。
ちなみに俳句における季語での鰻はやはり夏となっている。
東京に限らず、歴史のある町には良い鰻屋が有る事が多い。
水戸の「中川楼」・川越の「小川菊」「いちのや」・会津若松の「えびや」・三島の「桜屋」名前を上げれば切がないが、その土地の歴史文化と少なからずかかわりがあるように思えてならない。
鰻登り、鰻の寝床、山の芋変じて鰻となる等、鰻にまつわることわざも多い。
庶民にとって鰻は身近な物だったろうと想像がつく。
昔はよく鰻と梅干は食べ合わせが悪く、同時に食べると命に係わるとされていた。
食べ物の陰陽説に起因する等諸説はあるが、科学的根拠は無いようである。
著名な医者がテレビに出演し、実際に鰻重と梅干を食べて見せて問題が無い事を実証して見せた事もある。
そんな俗説が最近まで信じられていたのも、ほかならぬ鰻ならではと面白い。
人形町にある鰻店「梅田」では、鰻に練り梅で食す梅田丼が人気であるが、そんな俗説を逆手に取ったオリジナル鰻丼である。
昨今の暑い夏には、鰻重と香の物に奈良漬と共に小梅をそえるのも熱中症対策として良いような気もするが、さすがにそれをする店は無いようである。

                                      文責:小堺化学工業㈱ 営業部長 青木知廣
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by kosakai_blog | 2014-06-24 11:09 | 食のサロン
食のサロン その50 《江戸前鰻の話⑥ ところ変われば鰻も変わる?》
ところ変われば鰻も変わる。
ご存知のように鰻を割くのも関東は背開き、関西は腹開きと言うように、関西と関東では違いがある。
武士の町江戸では、腹から割くのは切腹につながると縁起を担ぐ。
関西大阪等は町人の町なので、腹の中に隠し事が無いよう腹から割くと言われている。
江戸関東風の鰻は、素焼きした後に蒸して軟らかくしてから、たれをつけて焼きあげる。
その為背から割いた方が串をしっかり刺せて、その後の工程が取りやすい事もあるようだ。
関西では蒸さずに仕上げるので、串を打たずに焼き上げる事も多いようである。
鰻の食べ方も全国には色々な食べ方がある。
名古屋名物となっている櫃まぶしは地焼きの蒲焼を包丁でたたいて櫃によそったご飯の上に乗せ、細く切ったネギや海苔、ワサビ等の薬味をそえて、暖かいだしと共に提供される。
お店の方に食べ方を尋ねると、しゃもじで鰻の乗ったお櫃を四等分し茶碗によそう。
一杯目は鰻とご飯をそのまま食べ、二杯目は薬味を乗せて、三杯目はだしをかけてお茶漬け風に、最後の四杯目は今までの中の好きな食べ方で召し上げって頂ければとの説明がある。
「蓬莱軒」・「いば昇」・「しら河」等が有名処となるが、名古屋名物櫃まぶしとして「備長」・「うな匠」等の店が東京にも出店している。
「蓬莱軒」が櫃まぶしの商標登録を持っているとの事であるが、名古屋の名物として全国に知られている。
京都に行けば、店名を太閤秀吉がわらじを脱いだ事に由来するとされる「う雑炊」で有名な「わらじや」がある。
ぶつ切りにして中骨を除いた鰻をネギや麩と共に土鍋で煮込んで食す「う鍋」と、開いて白焼きにした鰻を野菜と溶き卵で雑炊にして味わう「う雑炊」を看板にしている。
京都の鰻専門店「かねよ」は、鰻丼の上に大きな京風だし巻卵を乗せて提供される「きんし丼」を目当ての客で賑わっている。
九州福岡や佐賀県では鰻重や鰻丼では無く「せいろ蒸し」と言って、せいろにタレを絡めたご飯を盛ってその上に蒲焼と錦糸卵を乗せて蒸したてを食べる。
水郷柳川には「若松屋」・「柳川屋」等この「せいろ蒸し」の有名店がある。
ドジョウを使った「柳川鍋」は、この柳川の地名から名づけられている事で知られている。
「御花」は柳川藩立花家の屋敷を旅館として営んでいて、名勝として登録されている庭や大名家の宝物館も持つ事で知られている。
ここでの食事は、地元有明海の珍味を食し最後に鰻の「せいろ蒸し」で締める事になり、私のような鰻好きには嬉しい限りである。
以前は東京でも赤坂の「ふきぬき」と言う鰻店が、この「せいろ蒸し」を出す事で知られていた。
九州の鹿児島は養殖ウナギで日本一の生産量を誇っている鰻どころであり、当然鰻店も多くある。
繁華街天文館はその昔天文観測をする天文館があった事が現在の地名となっているが、この天文館跡地に建つ「末よし」と言う鰻店がある。
この店で食事をして、関東と比べて取り合わせの違いで所変わればと感じた事がある。
鰻重には肝吸いのようなお吸い物と思っていたが、この辺では味噌汁が当たり前らしいのである。
川魚料理としての「鯉こく」と「蒲焼」の取り合わせは関東でもよくあるが、「鰻重」・「鰻丼」に当たり前のように普通に味噌汁が付いてくる事が不思議に思えるのは、固定観念からだったのだろうか。

                                                  文責:営業部長 青木知廣
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by kosakai_blog | 2014-05-27 17:43 | 食のサロン
食のサロン その49 《江戸前鰻の話⑤ 蒲焼はお重で食べる?》
本来江戸前の鰻重のご飯は天重等の他の重箱物とは違っていた。
注文を受けてから鰻を割いて焼きは始めるが同時に米を砥いで火にかける。
炊きあがりと同時に蒲焼が焼きあがるように頃合いを見て調理してゆく。
炊きたてのご飯を蒸らさずに重箱によそってその上に蒲焼をのせて蓋をして重箱の中で蒲焼の香りと共に蒸らすのである。
客が来るたびに鰻を調理するのはもとよりご飯もその都度炊く事になる。
昔はこの方法にこだわった鰻重を提供する老舗も多かったが今は殆ど無くなってしまった。
それでも十数年前まではこの方法で鰻重を提供する店が残っており、そんな鰻重を食べると店の心意気に感激もしたものである。
もっとも鰻重を食べて焼き立ての暖かいままの蒲焼が、鰻の香りをまとって蒸されたご飯にのっていると、わかる客も少なくなってしまったのも事実である。
そのような店では運ばれた鰻重の蓋をすぐには開けずに、鰻とご飯が重箱の中で蒸されるタイミングを持って蓋を開けるのも鰻通と言う事になる。
現代の感覚では一般的に少し軟らかめのご飯よりも、しっかりと蒸らした少し硬めのご飯の方がおいしいと感じるのかもしれない。
鰻好きを納得させるこだわった鰻重を食すのも今は昔の話となりつつある。
なぜそのような方法で鰻重を提供したかと言うと、蒲焼の香りを逃さない事と暖かい鰻を提供する事に目的があったと考えられる。
鰻の蒲焼をおいしく食べるにあたっては温度が大切になる。
一般に鰻のたんぱくやコラーゲンは40度から70度位の温度で食すのがおいしいと言われている。
確かによほど蒸しを聞かせた鰻で無い限り冷めた蒲焼は食べにくい。
以前は蒲焼を入れる容器は、重箱を二重にして底の方にはお湯を入れて冷めないように提供する店もあった。
上野池之端にある「伊豆栄」では、宮内庁御用達の鰻は冷めないようこの要領で暖かい蒲焼を運んだと聞いた事がある。
ふっくらとした蒲焼はやはり焼き立てを食べるのが一番と言う事になる。
赤坂に「重箱」と言う変わった店名で江戸時代創業の老舗鰻料亭がある。
子供の頃に立派なお重で蒲焼が提供される店と聞いた記憶があり、以来鰻重の重箱に由来する店名なのかと勘違いしていた。
久保田万太郎の「火事息子」はこの「重箱」をモデルとして書かれており、その中に店名の由来が書かれている。
それによると浅草の山谷にて、初代が鯉こくや鰻飯を出す店を創業し繁盛した。
近くに重箱稲荷と言う小さなお稲荷さんのお宮があり、その地の鰻屋と言う事で重箱の鰻屋と呼ばれるようになりそれが後に店名になったようである。
久保田万太郎は重箱稲荷を世にも珍しい名前の稲荷と書いているが、そのいわれは記されていない。
調べてみると、三代将軍家光が鷹狩りに行き鷹を放したがどこかへ飛び立って戻ってこない。
どうした物かと困っていると近くに稲荷のお宮があり、そのお宮に弁当として持参していた重箱を供えるとその鷹が舞い戻って来て鷹狩りを続けたと言う逸話に由来するらしい。
もっともこの由来のある稲荷は品川区にあるらしく、浅草山谷にあったとされる重箱稲荷はその末社なのかは定かでは無い。
子供の頃に思っていた勘違いも元をたどれば食べ物を入れる重箱に行き付いたようで面白い。
ちなみに久保田万太郎と当時の「重箱」の主人は浅草の小学校の同級生であったと言う話である。

                                                         文責:青木知廣
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by kosakai_blog | 2014-04-30 16:02 | 食のサロン



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