カテゴリ:食のサロン( 68 )
食のサロン その28 《江戸前蕎麦の話 ⑧》
蕎麦店のなかには寺方蕎麦を名乗る店がある。
代表的な蕎麦店としては墨田区向島の名店「長浦」があげられる。
「長浦」によると慶長年間に妙興寺と言う禅宋の寺にいた恵順と言う禅僧が「蕎麦覚書」と言う15品に及ぶ蕎麦の食法を記録した。
「長浦」の先代はこの記録を研究し自店の蕎麦に取り入れたとの事である。
この妙興寺は愛知県一宮市にある禅宋の寺で貞治4年(1364)創建と伝えられる。
俗に「尾張に杉田(過ぎた)の妙興寺」と言われた古刹である。
禅林の薫り高い一品には妙興寺蕎麦と名付けたとの事である。
今は品書きから無くなってしまったが以前は蕎麦雲水、蕎麦般若、等他店にはない品書きも多かった。
妙興寺蕎麦は椀盛の蕎麦に白髪大根、煎り胡麻、海苔を添え寺方伝のつけ汁で禅味を表し、蕎麦般若は蕎麦に日本酒を練り込んで蕎麦と酒の香りを楽しむ物である。
創業時には町方の蕎麦と一風異なる蕎麦を看板としたようである。
門前蕎麦とうたっている蕎麦店もありこちらは有名な寺の近くにあり訪れる参拝客向けに店を出して繁盛している。
良く知られるところでは信州善光寺周辺や福井県の永平寺蕎麦、西東京調布市の深大寺蕎麦等がある。
八王子の高尾山では冬蕎麦と言って参道の各蕎麦店がそろって温かいとろろ蕎麦をメニューに入れている。都内最古の寺と言われる浅草寺界隈も有名な蕎麦店は多い。
明治3年創業の浅草「尾張屋」は永井荷風が足しげく通った事でも知られている。
天ぷら蕎麦が名物で蕎麦のどんぶりからはみ出した大きなエビの天麩羅が客に受けている。
神社の近くにも蕎麦処は多く信州戸隠神社周辺の戸隠蕎麦は全国的にも有名である。
文京区の根津権現近くの「夢境庵」は創業30年と歴史は浅いが地元で評判の蕎麦店である。
オリジナルの権現蕎麦は京がんもの上に蒲鉾を切って作った鳥居を乗せて提供される。
年の始めの食べ物が餅を入れた雑煮やおせち料理ならば年の終わりに食べるのが年越し蕎麦である。
行く年を偲んで蕎麦をすすり来る年が良い年であるよう願って蕎麦をすする。
細く長く縁起にかけた物と言われている。
引っ越し蕎麦と言われ引っ越しの挨拶代わりに隣近所に蕎麦を振舞う風習もあった。
そばに越して来ました末永くよろしく、と言う気持ちを長く細い蕎麦で表現したようである。
残念ながら今では引っ越しに蕎麦を食す事は少なくなったようである。
以前東京ではこれから討ち入りだから蕎麦を食べに行こうと言った物である。
今はそんな粋な人もいなくなったが赤穂浪士が討ち入りの前に蕎麦屋に集まったと言う話にちなんでの事と思われる。
大事な商談や交渉事等がある前に討ち入りに成功した赤穂浪士にあやかって蕎麦を食べ話がうまく行くようにと言う意味合いである。
12月14日討ち入りの日に食べる蕎麦は討ち入り蕎麦と言われる。
討ち入り前、義士が蕎麦屋に集まったと言う話は少し芝居がかっているが義士祭には今も蕎麦が振舞われる。
本所松坂町吉良上野介屋敷跡にも近い両国の「玉屋」と言う蕎麦店には討ち入り蕎麦と言う品書きがある。大きながんもどきや大根おろし等が具となっていてそれぞれ大石内蔵助の陣太鼓、雪、夜を表していると言う。

                                                        文責:青木知廣
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by kosakai_blog | 2012-08-21 15:21 | 食のサロン
食のサロン その27 《江戸前蕎麦の話 ⑦ 》
信州信濃の新蕎麦よりもと都々逸にも歌われたように信州は江戸の昔より良い蕎麦の収穫される土地として知られていた。
黒姫や戸隠の霧下そばは寒暖の差により国産そばの中でも特に品質が良いと言われている。
保科家の江戸屋敷に出入りしていた信州更級の反物商、布屋太兵衛は蕎麦打ち上手として知られていた。保科家の勧めもあり信濃布の商いから蕎麦屋に転じ保科家江戸屋敷に程近い麻布永坂町に店を構えた。
看板は「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」と掲げた。
更科は信州そばの集散地でもあった更級の「級」の音に保科家から許された「科」の字を当てたものと言われている。
創業は寛政元年(1789)と伝えられている。
現在一般的に色の白い細打ちの蕎麦を更科蕎麦と言いこの店が発祥とされている。
場所柄大名家や寺社に出入りをするようになり更科蕎麦は御膳蕎麦とも言われた。
玄蕎麦の殻(果皮)を取り除き丸抜きにして石臼でゆっくり挽いて行くと粒が割れて最初に中心部の柔らかい部分が粉となる。
きめの細かい色の白いそば粉は一番粉と呼ばれこれを更科粉と呼ぶ場合もある。
石臼のすき間を少し開けて割抜きと言う方法で粒が二つ三つに割れた上割れと言う状態で割り抜いた物を製粉したそば粉を本来は更科粉と言うらしい。
使われる粉の特徴によって色の白い細くて長い蕎麦を打つ事が出来る。
永坂更科布屋太兵衛のトレードマークとなっている細く長い蕎麦を箸で高く持ち上げて食べようとしている町人の絵は更科蕎麦の特徴をよく表している。
麻布十番大通り沿いには2件の更科蕎麦が店を構えている。
総本家永坂更科布屋太兵衛と総本家更科堀井である。
どちらも創業寛政元年創業で総本家を名乗っている。
永坂更科は代々布屋太兵衛を名乗って来たが明治になり苗字を堀井と名乗った。
戦後堀井家は一度店を閉め、会社組織となった永坂更科は更科の伝統を引き継ぎながら規模を大きくした。
登録商標を持つ永坂更科布屋太兵衛は多くの支店を持ち更科蕎麦の普及に貢献している。
堀井家直系の更科堀井は更科蕎麦の伝統を守り繁盛している。
少々複雑な事情はあるがどちらも更科蕎麦の名店である。
更科蕎麦を初めて食べた人の中には自身の持つ蕎麦のイメージからか首をかしげる人もいる。
そう言う人を連れて更科堀井を訪ねた時は更科蕎麦と太打ち蕎麦の両方を食べ比べる事を薦めている。
そうするとまず甘つゆと辛つゆが運ばれてくる。
つゆの違いを口にして待っている内に色の白い更科蕎麦が運ばれてくる。
次に色の黒い太打ち蕎麦を食べる。
殆どの人がその食感の違いと共にどちらにどのつゆが合うかが分かると言う。
そして更科蕎麦の味わいに納得の笑顔を見せてくれる。
色の白い更科蕎麦は蕎麦生地に柚子等を練り込んだ変わり蕎麦を楽しむこともできる。
寛政3年(1792)創業の芝大門更科布屋には月替わりで楽しめる12種の変わり蕎麦がある。
収穫時期の異なる国内産のそば粉を使う生粉打ち蕎麦と変わり蕎麦にて季節も味わえる名店である。    

文責:青木知廣
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by kosakai_blog | 2012-07-19 15:59 | 食のサロン
食のサロン その26 《江戸前蕎麦の話 ⑥ 》
蕎麦屋の系統にはその歴史や蕎麦自体の特徴から藪系、更科系、砂場系等と言われる普系があるとされる。
藪、更科、砂場を称して江戸蕎麦の3大普系と言われている。
砂場は元々関西、大阪を発祥とした蕎麦の系統であるらしい。
大阪城を築城した時の砂置場周辺に商店街が出来その商店街が通称砂場と呼ばれた。
その中にあった蕎麦屋も砂場の蕎麦、砂場蕎麦と呼ばれるようになったとされている。
大阪新町には砂場跡の石碑があり本邦麺類店発祥の地大阪築城史跡・新町砂場とある。
碑文には太閤秀吉大阪築城により浪花の町に資材蓄積場設けられ新町には砂の類置かれ通称砂場と呼ばれた。
工事関係の人が集まり賑わい食要す中、いずみや、津の国屋等麺屋として開業されたとある。
寛政十年(1799)刊とされる摂津名所図会の中で「砂場いずみや」の図として紹介されている蕎麦店の絵図がある。
大きな店構えに「す奈場」と染められた暖簾の掛かる外観図のほか賑わう店内の様子や蕎麦を挽く石臼等を画いた図が残る。
石臼の数、蕎麦を打つ、ゆでる、運ぶ人数、それを食べる客の数は百人をゆうに超え大した繁盛ぶりと店の規模の大きさに驚かされる。
当時の名物蕎麦店であった事は窺い知れる。
この砂場(浪速の新町)で繁盛した蕎麦店も残念な事に明治期に廃業となった様である。
大阪発祥の砂場蕎麦がどのように江戸に伝わったのかは分からないが時同じくして江戸にも砂場蕎麦の記録が現れる。
寛永4年(1751)の「蕎麦全書」には江戸薬研掘りに「大和屋大阪砂場そば」天明年間(1781~89)刊行の「江戸見物道知辺」には「浅草黒船町砂場蕎麦」の名前が登場している。
神田藪そばの初代は「蔦屋」の神田店(連雀町店)を引き継ぐ前は浅草蔵前で「中砂」と言う店を出していて砂場系だったとの話を耳にした事があるが定かな処は分からない。
いずれにしても東京には砂場を名乗る歴史のある蕎麦店は多い。
幕末に大阪屋砂場より暖簾分けにて高輪にて創業し明治2年に日本橋室町へ移転して現在に至る「室町砂場」は創業130年の老舗である。
砂場系蕎麦店を代表する名店であり天もりの元祖とも言われている。
初代大阪屋長吉が天保10年に創業した歴史を持つ「巴町砂場」は一番粉の細打ち蕎麦と薄味つゆが特徴の蕎麦店でとろろ蕎麦はこの店の名物となっている。
「虎ノ門大阪屋砂場」は武家の娘であったが糀町七丁目砂場の幼女として預けられた初代のおかみが明治5年現在の地に創業。
現店舗は大正12年普請の高級蕎麦店として知られている。
江戸における砂場本家とされる糀(麹)町砂場は都電三ノ輪橋駅近くの商店街に所を移し「南千住砂場」として店を構えている。
この「南千住砂場」が現在「砂場本家」を名乗っている。
これらの店が中心となり昭和8年に砂場長栄会が結成されその後「砂場会」と改名された。
砂場の普系とされる蕎麦店によるこの会には以前は180からの会員店舗数があったと聞いている。
江戸蕎麦文化の創世記に大阪発祥の砂場蕎麦がかかわっていたのは事実のようである。
大阪や関西は饂飩文化と思いこんでいる我々には面白い話である。
ちなみに大阪、京都、関西にも美味しい蕎麦店は多い事を付け加えたい。
                                                      文責:青木知廣
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by kosakai_blog | 2012-06-22 17:48 | 食のサロン
食のサロン その25 《江戸前蕎麦の話 ⑤》
東京には藪蕎麦を名乗る店が多い。
寛政の頃雑司ヶ谷鬼子母神の近くの藪の中にあった百姓家が参拝客相手に蕎麦を出して評判になった。
それにあやかろうと藪を名乗る蕎麦店が表れたと言うような説もある。
諸説はあるが広く伝えられているのは駒込の団子坂下にあった蔦屋と言う店が藪蕎麦の元祖であると言う話である。
往時のこの店は3000坪の敷地を要し庭には滝を配し離れもあったとの事なので蕎麦店と言うよりは料亭のようなしつらえである。
たいそう有名な店であったらしいが周りに竹藪が多かったことから人々は通称で藪蕎麦と呼んでいたようである。
この蔦屋は明治の終わりに廃業され今は無い。
蔦屋の淡路町にあった支店を引き継ぎ堀田七兵衛が明治13年に創業したのが今に残る神田藪蕎麦である。
団子坂の藪蕎麦(蔦屋)にならい料亭風の構えで厳選された玄蕎麦を用いた蕎麦を提供している。
現在名実共に藪の本家とされている。
江戸前の穴子を使った「穴子なんばん」はこの店のオリジナルとして知られている。
七兵衛の3男、勝三が浅草に店を出したのが並木藪蕎麦である。
二代目堀田兵七郎は昭和の蕎麦打ち名人と言われた。
この店の蕎麦つゆは東京一濃いつゆと言われている。
場所柄浅草見物に来た客が寄る事も多い。
ある時饂飩を頼んだ客がいて店員が饂飩は無いと言うと客がなんだ饂飩は無いのかと言うやり取りがあった。
それを聞いていた主人の兵七郎がうちは蕎麦屋だと怒っていたのを思い出す。
並木藪の二男が上野池之端に店を出したのが池之端藪蕎麦である。
この3軒が藪蕎麦の御三家と呼ばれている。
藪を屋号にした蕎麦店は都内及び全国にもたくさんある。
日本橋の藪伊豆総本店は京橋にて江戸期より蕎麦店を営んでいた伊豆本と言う店を明治15年に堀田定次郎が藪と伊豆本の伊豆を取り藪伊豆として神田藪直系の分店となったのが始まりとされる。
この伊豆本は大塩平八郎の乱が起こったころには既に蕎麦店として繁盛していたとの事である。
このころは全国的に米の凶作が続き江戸でも蕎麦が多く食べられたとあり、蕎麦が普及したのはあるいはそのような事情があったのかもしれない。
藪伊豆総本店では落語とそばの会を定期的に催している。
上野にある上野藪蕎麦総本店は神田藪蕎麦からの暖簾分けで多くの蕎麦好きに支持されている。
東京で藪を名乗る有名店では中央区浜町の「浜町藪そば」港区麻布台の「麻布台藪そば」港区高輪の「泉岳寺藪そば」墨田区吾妻橋の「吾妻橋やぶそば」中央区の「日本橋やぶ久」等がある。
文京区本郷「森川町藪蔦」は共に団子坂蔦屋で奉公をしていた二人が夫婦となり暖簾分けにて店を構えたのが始まりと伝えられている。

                                                         文責:青木知廣
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by kosakai_blog | 2012-05-25 16:48 | 食のサロン
食のサロン その24 《江戸前蕎麦の話 ④》
ゆでた蕎麦を冷水で冷やしザルに盛って提供する。
いわゆる「ザル蕎麦」は蕎麦店によってセイロ(蒸籠)蕎麦ともいわれる。
頃合いに茹で上がった蕎麦を冷水でさっとしめてセイロに盛る。
出来立ての蕎麦を手繰ってだしの効いたつゆに付けてするっとすする。
蕎麦の醍醐味である。
蕎麦についた余分な水分を切る為にセイロに盛られるのであるが蕎麦の歴史と関係があるらしい。
江戸で蕎麦切りが作られるようになった当初は、蕎麦はゆで上げるのではなくセイロに盛って蒸されて提供されていたと言うのである。
その習慣から蕎麦はセイロに盛られて提供されると言われている。
別の話では江戸のとある蕎麦屋がゆでて冷やした蕎麦を素早く水切りが出来て見栄えも良いのでセイロに盛って提供しだしたと言う説もありこちらは今と同じ考え方である。
ゆでた蕎麦を水で冷やしザルやセイロに乗せるのが当たり前と思っていたのは東京人であったと知らされた事がある。
昭和の中頃までは良くあった話として上野界隈の蕎麦店で聞いた話である。
東北方面から上京した人が上野駅で降り蕎麦店に入る。
蕎麦と共に出された蕎麦つゆの入った徳利を持って蕎麦の盛られたザルの上からザットかけてしまうような事がしばしばあったらしい。
この話は複数の蕎麦店で聞いた事があり、実際にその現場を見たと言う人もいる。
テーブルに着いた清楚なお嬢さんがモリ蕎麦の上からつゆをかけてしまった。
店の人が「またやった」と言って布巾を持ってつゆのこぼれたテーブルを拭き、新しいつゆを持ってきてあげて食べ方を教えてあげていたと言う。
確かに全国に目をやると蕎麦を盛る容器には色々とあるようである。
山形県では長方形の木のお盆の様な物に蕎麦を盛る板蕎麦。
新潟県では同じような長方形のヘギと呼ばれる容器に一口サイズにまとめた蕎麦を並べて盛るヘギ蕎麦。
島根県出雲地方では蕎麦を入れて重ねる事が出来る割子と言う塗の容器に盛る割子蕎麦。
兵庫県の出石では蕎麦を入れた小皿を並べて食べる。
どれも名物の美味しい蕎麦である。
一昔前までは東京の蕎麦店ではメニューにザル蕎麦ともり蕎麦があるのがふつうであった。
ところで「モリ蕎麦」と「ザル蕎麦」の違いは何であろう。
殆どの蕎麦店では「モリ蕎麦」に海苔を散らして載せると「ザル蕎麦」となり値段もその分高くなると言うのが一般的である。
こだわりのある蕎麦店ではつゆの違いで区別をしている店もある。
砂糖が高価であった当時には砂糖を使ってコクを出しダシも吟味したつゆを用いるのが「ザル蕎麦」とし「モリ蕎麦」と区別をしたと言う話である。
蕎麦店のなかには風味のある黒みがかった蕎麦(麺)をモリ、粒子の細かい更科粉で打った蕎麦(麺)をザルと分けて出す店もある。いずれにしてもモリよりもザルの方が少しばかり高級と言う考え方は共通のようである。

                                                     文責:青木知廣
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by kosakai_blog | 2012-04-26 16:26 | 食のサロン
食のサロン その23 《江戸前蕎麦の話 ③》
江戸っ子はそばっ食いとして有名である。
箸で手繰った蕎麦の香を楽しむ為どっぷりつゆに浸すような食べ方をしてはならない。
蕎麦猪口に入った辛めのつゆを手繰って持ち上げた蕎麦の先にほんの少し付けてするすると音を立ててすすり込む。
素早く食べなければ蕎麦が伸びてしまう。
ぐちゃぐちゃ噛むような食べ方はもってのほか噛まずに呑み込むように喉越しを楽しむ。江戸っ子の粋な食べ方とされている。
噺家で人間国宝だった五代目「柳家小さん」が講座で「時そば」を演じた。
演じ終わって寄席の近くの蕎麦屋に入ると自分の講座を聞いていた客が大勢蕎麦を食べていた。
客は小さんが店に入って来たことを見ている。
小さんとしては仕方なく見栄を張り他の客の目を意識して江戸っ子よろしく蕎麦をすすった。
見ていた客はさすが小さんと感心したようである。
後に小さんが言うにはこの時の蕎麦は全く美味しくも何も感じられなかったとの話であった。
ある粋な江戸っ子が死ぬ時になって一度でいいから蕎麦をたっぷりつゆに浸して食べたかったと言う笑い話もある。
江戸っ子ならずとも蕎麦好きなら粋な蕎麦の食べ方をしたい。
そんな事を思っていると死ぬ時に後悔する事になりそうである。
もっとも蕎麦の香りを楽しむと言うのは蕎麦の食べ方として間違っていない。
新蕎麦であればなおさらである。
蕎麦屋によっては最初の一すすりか二すすりは蕎麦の香りを味わってもらうよう冷たい水に蕎麦を浸して食べてもらうような演出をする店もある。
本来東京の蕎麦は醤油の多い辛いつゆで食べられる。
そう言うつゆに蕎麦をたっぷり浸してしまっては蕎麦の味が分からなく成るのも事実であろう。
昔のそば通の人は「蕎麦がき」で日本酒を飲んで「もり蕎麦」で締めくくるような事を良くしたものである。
「蕎麦がき」にて使用している蕎麦粉の良し悪しが分かり蕎麦切りでその店の技量が分かると言う事であろうか。
落語の「時そば」は客の男が屋台の蕎麦屋とやり取りをしながら調子良く蕎麦を食べる。
勘定を払う段になり小銭で払うと言いだし途中で時刻を聞き勘定をごまかしてしまう。
それを見ていた他の男が自分もまねて上手くやろうとして逆に多く払ってしまうと言う笑い話である。
この落語には当時の風俗や蕎麦屋の事情が良く盛り込まれている。
二八蕎麦として蕎麦一杯の値段が一六文。
夜鷹蕎麦として営業を始めるおおよその時間と風鈴を付けて屋台を担いた事。
良い蕎麦とされる蕎麦は細く長い物であり添えられる具材もこだわりがある。
使われる器の良し悪しや割り箸に至るまで話の中に当時の事情が読みとれる。
江戸の蕎麦が屋台により普及したのであろう事が想像され蕎麦を食べる事が江戸庶民の楽しみであった事も窺い知れる。
江戸っ子の蕎麦好きはこの当時からDNAに受け継がれているように思える。
                                                       文責:青木知廣
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by kosakai_blog | 2012-03-26 16:24 | 食のサロン
食のサロン その22 《江戸前蕎麦の話 ②》
伝統的な物であろうか蕎麦屋の屋号に何々庵と言う屋号を良く見かける。
客の方は店名にこの庵が付いている事によって何となく美味しい蕎麦を連想するようなので不思議でもある。
なるほど一茶庵、本村庵、大村庵、長寿庵等名店が多いのも事実である。
江戸中期浅草の浄土宗の寺院内に道光庵と言う庵があった。
この庵主が信州出身で蕎麦打ちが得意であったので参拝の人達に蕎麦を振舞っていた。
これが大変おいしい蕎麦と評判になり信心にかこつけて蕎麦目当てに人が集まるようになる。
やがて評判が評判を呼び人々が列をなしたと伝えられている。
その道光庵にあやかりたいと当時の蕎麦店が屋号に庵を付けるようになったと言われる。
蕎麦打ち名人にあやかってうまい蕎麦を打てるようにと言う事もあったのかもしれない。
道光庵のあまりの繁盛ぶりと騒ぎを見かねて本院の和尚が本来の修行の妨げになるとこの庵の蕎麦を禁じてしまった。
天明六年(1786)の事とされる。
この道光庵を屋号とする蕎麦屋が西日暮里にある。
先の道光庵との関連は知らないが創業30年地元で評判は良いようである。
屋号に庵の付く都内の老舗の代表格は上野の蓮玉庵があげられる。
上野不忍池の蓮の葉の上にある玉のような蕾にちなみ蓮玉庵と店名に付けたと言われる。
創業は安政六年。
斉藤茂吉がこの店を短歌で読み、森鴎外の雁を始め坪内逍遥、樋口一葉らの作品にも登場する。
店の看板と石額は久保田万太郎の筆と聞く。
同じく庵の付く蕎麦店では栃木県足利の一茶庵が昭和において手打ち蕎麦の普及に貢献した事が特記される。
この店は当初東京の新宿に店を開きその後大森にて店を構えた。
大森の一茶庵は美味しい蕎麦店として評判を得ていたが戦火に焼かれ時を経て栃木県足利にて一茶庵を再開する。
やがて美味い蕎麦を求めて東京から足を運ぶ人もあったばかりか、その蕎麦の技術を学ぼうと各地から足利詣でを行う人が多く現れた。
主人片倉康雄は当時何処の店も秘伝として企業秘密であった手打ち蕎麦の技術を乞う物に惜しみなく教えた。
以来そこで技術を学んだ親族や弟子は1000人を数え700軒以上の蕎麦店に技術が伝承されたと言われている。
九段一茶庵や鎌倉一茶庵を始め弟子や孫弟子による全国の名店は多い。
豊島区南長崎で翁を開店した高橋邦弘も片倉康雄の「日本そば大学講座」を受講した後一茶庵宇都宮で修業した弟子のひとりである。
翁は評判を得て繁盛したがその後自家製粉を行う為山梨県長坂に移る。
現在はその弟子が翁長坂店を継いでいる。
高橋邦弘は広島を拠点に蕎麦指導を中心として全国で活動を続けている。
                                                         文責:青木知廣
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by kosakai_blog | 2012-03-05 14:18 | 食のサロン
食のサロン その21 《江戸前蕎麦の話 ①》
日本のそばのルーツはDNA分析から中国の雲南省からヒマラヤあたりであろうと推測されている。
高知県で9000年前の遺跡からそばの花粉が見つかり当時からそばの栽培が行われていた可能性が論議されている。
奈良時代前期に天正天皇により雨が少なく稲の収穫が見込めない年にそばの栽培が推奨されたと言う記述がある。
しかし、そばの歴史の中で麺としての蕎麦が誕生するのはずっと後の事である。
麺としての蕎麦いわゆる蕎麦切りは16世紀の頃に誕生し江戸期に入り製法が打ち立てられたと考えられている。
それではその蕎麦切りはどこで最初に作られたのかと言う事になる。
芭蕉門下の俳人許六が宝永3年(1706)に編纂した風俗文選の中で蕎麦切りとは信濃の国本山宿より出て国々にもてはやされるようになったと言う説を紹介している。
現在塩尻市本山は蕎麦切り発祥の地として蕎麦で町おこしを行っている。
甲州天目山栖雲寺には蕎麦切り発祥の地と言う大きな石碑が建っている。
尾張藩の国学者天野信景が蕎麦切りは甲州天目山栖雲寺の参詣の人々に米麦が少ない地方の為ソバをこねて提供したのが始まりと書き残している事による。
当然こちらも蕎麦切り発祥の地を名乗っている。
江戸を発祥と言う説も色々とあり定かな事は分からない。
各地で自然発生的に作られて来た。
うどんを手本に作られたのではないか等の仮説も多々ある。
どちらにしても以後広く普及したと言う事は蕎麦切りがとても美味しい食べ物だった事に間違いない。
蕎麦が江戸で人気を呼び、扱う屋台や店が瞬く間に増えて行く。
武家、町人を問わず江戸の人々に支持された事が窺い知れる。
蕎麦切りには蕎麦つゆが無ければ始まらない。
当時蕎麦つゆに必要な醤油や味醂も水運を使い野田や銚子、流山等から江戸に集まって来ていた。
それらも江戸で蕎麦文化が花開いた条件として関係がある物と思われる。
幕末の頃には江戸の蕎麦店は3700件を数えたと言われている。
各蕎麦店による創意工夫により考案された蕎麦もある。
蒲鉾や椎茸等でおかめの面をかたどった「おかめ蕎麦」は下谷七軒町の太田庵の創案。
「鴨南蛮」は馬喰町の笹屋治兵衛の創案とされる。
創業150年となる浅草橋の江戸蕎麦手打ち処「あさだ」の鴨セイロ、鴨南蛮は評判が良い。
明治期に大阪で考案されたとされる「カレー南蛮」もファンが多いメニューである。
明治35年創業日本橋「やぶ久」。
評判のカレー南蛮には辛さが普通と辛口の2種類ある。
それぞれ冷たい蕎麦のつけセイロがあり肉も鶏と豚が選べる凝りようである。
明治17年創業の名店神田「まつや」のカレー南蛮は作家池波正太郎もそれがまた、うまいと評している。
新橋「能登冶」は安政年間に能登屋として創業し明治になり明治の冶を取り能登冶として屋号を改名し現在6代目が営業。
明治5年開店時の店の大家が浅野家出入りの大工であったので浅野屋を名乗ったと言う「神田浅野屋」。
東京の蕎麦店には歴史と共にいわれも色々ある物である。
                                                     文責:青木知廣 
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by kosakai_blog | 2012-02-14 11:47 | 食のサロン
食のサロン その20 《江戸前鮨の話 ⑫》  最終回
江戸前鮨に欠かせない食材として海苔がある。
江戸前海苔の代表としては浅草海苔や品川海苔が知られている。
原種としてのアサクサノリは野生種として日本の太平洋側各地の内湾に分布していた。
色が赤めで肉質が柔らかく独特の磯風味があるが水質汚染等に弱く育てにくい。
現在は養殖海苔の殆どがスサビノリとなっている。
スサビノリは色が黒いのが特長で病害にも強い。
アサクサノリの野生種は干潟が埋め立てられ減少し環境省のレッドリストに絶滅危惧類とされている。
浅草海苔の名の由来は江戸浅草で製造販売された為と言う説がある。
海苔を抄くのは紙の産地でもあった浅草の和紙を抄く技術が取り入れられたという話もある。
上野寛永寺の天海上人が命名し江戸名物にしたとも伝えられる。
おそらく商売上当時江戸の発展と共に名を知られた浅草をブランド名として冠し江戸名物としたのではないかと思われる。
現在は有明海産の海苔が主流となっているが、鮨店によってはきめ細かい瀬戸内産を選んで使っている店もある。
海苔巻きには海苔を1枚使用する太巻きと半分使用して巻く細巻きがある。
昨今は中巻きといわれ主にテイクアウトの鮨等で作られるものもある。
海苔になじみの無い外国では海苔の色等見栄えに抵抗があるようで、海苔を内側にして裏巻きと言う技法もある。
海苔巻きと言う言葉を使ったが、江戸前鮨では巻きすしが正しい言い方となる。
通常は鉄火巻やかっぱ巻きのような細巻きである。
昔は関西に細巻きはなく、江戸前鮨がルーツと思われる。
江戸前鮨では海苔を炙って焼き海苔の状態で巻き焼いた海苔の香りを楽しむ。
破れやすく巻きにくい焼き海苔を鮨職人がその技術で素早く巻き上げる事により歯切れの良いパリッとした食感が味わえる。
巻き鮨の芯として代表的なものにカンピョウ(干瓢)がある。
カンピョウはウリ科の夕顔の実を細く削り、平たい紐状にして乾燥させた物である。
今は全国生産の98パーセントが栃木県で作られる。
水はけの良い関東ローム層と名物の雷による夕立の雨が夕顔の栽培に適しているとされる。
鮨ネタとなる魚や貝、甲殻類には各種アミノ酸、DHA、タウリン等色々な栄養素が含まれるが如何しても繊維質やビタミンCが不足する。
カンピョウは食物繊維やカリウム等ミネラルが豊富であり、海苔にはビタミンAを始めB1,B2、E、Cも含まれる。
握りの他に巻き物としてカンピョウやカッパ巻きウメシソ巻き等を加える事により栄養学的に必要な栄養素が含まれた食べ物となる。
カンピョウ巻きを食べたり最後にウメシソ巻きで口の中をさっぱりさせるのは栄養的にも理にかなった食べ方と言える。
私の場合はカンピョウ巻きにワサビを利かせてもらい最後の注文として頂く事が多い。

                                                        文責:青木知廣
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by kosakai_blog | 2011-09-26 13:23 | 食のサロン
食のサロン その19 《江戸前鮨の話 ⑪》 
江戸前鮨は伝統を守りながらも明治以降変化を続けている。
同じ江戸前の鰻店が原材料の鰻が養殖物になった以外技法も形も、味付けも殆ど変化していない事を考えれば対照的かもしれない。
昔は食べなかったトロを好んで食べるようになり、イクラやウニも軍艦巻きや手巻き鮨にして食すようになった。
バブル全盛期にはスシバーなるものが流行りそこでの人気ネタが鮨好きを驚かせた。
アボガドを使ったカリフォルニヤロール成る物やツナマヨネーズやエビマヨネーズ、フォアグラやキャビアも鮨として登場した。
海を渡った日本の鮨が変化して逆輸入されたものである。
江戸前を売り物にする鮨店で、もしそのような物が出されたら、おそらくその店には二度と通わない事になるだろう。
しかしスシバーで出されるそれは江戸前鮨とは異なる食べ物ではあったがそれなりに食べる事は出来た。
いやフアッション性のある洒落た雰囲気の店内で間接照明の下ワインと共に頂けば実に美味しいという事になる。
あまりに変化が大きすぎて付いていけなかっただけなのかもしれない。
ネギトロと言う鮨ダネがある。
何処が始めた物か定説は無いが、鮨ダネの一つとして持ち帰り鮨を中心に定着した感がある。
下町の気取らない店でありネギトロ巻きを世に広めた店ではないかと思う鮨店がある。
池波正太郎の生まれた浅草聖天町の近く吉野町に店を構える「金太楼鮨本店」である。
修業に来た職人に暖簾分けをして独立させるべく仕事を教える。
見習い職人はいつか自分の店を持とうと一生懸命働いて仕事を覚え店も繁盛した。
ここの職人が全国鮨コンクールの各部門で上位を独占した事もある。
一本買いしたマグロの中骨に付いたいわゆる中落ちや策取りした跡の切れ端に刻みネギを加え叩いた物を海苔巻きにした。
以前は処分してしまった部分を工夫して食べるとなかなかの味であった。
刻んだ沢庵と混ぜても巻き鮨としたがこれも美味しい。
北海道札幌の名店「すし善」の名物にもなっているトロタクである。
またこの店は軍艦巻きに抹茶アイスを乗せたアイスクリームの鮨も出し女性や子供に人気をはくした。
突拍子も無い事を考える物であるが技術に裏打ちされながら伝統にとらわれない愉快な店でもある。
最近では都内の鮨店でも駿河湾特産のサクラエビの生を乗せた軍艦巻やノレソレと言ってアナゴの稚魚を軍艦巻で出す店もある。
ちなみにノレソレは高知県あたりで使われる方言らしい。
京漬物の千枚漬を握ったり、九州あたりで食される芽ネギを握った鮨もある。
フグやアラを名産とする地方ではこれらの高級魚も鮨にした。
これらは江戸で生まれた江戸前鮨が地方に根付き地方の特産品をネタにして本家に戻ってきたという事になる。
近頃は世界寿司コンテストなるものがロンドンで開催されているらしい。
世界各地域や国から自慢の鮨を一品勝負で競い合うコンテストとの話である。
宮城県の「あさひ鮨」でそのコンテストで世界一になったと言う鮨を握ってもらったことがある。
あさひ鮨は地元気仙沼の特産品フカヒレを使った鮨を名物として知られた店である。
この店の職人が国内予選を勝ち抜いてコンテストに参加し優勝したとの事であった。
その鮨は軍艦巻きに特産のフカヒレを乗せたものであったがフカヒレの上に金粉が飾ってあり食べるとなんとシリアル(コーンフレーク)が口の中で広がった。

                                                         文責:青木知廣
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by kosakai_blog | 2011-09-26 13:15 | 食のサロン



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